真岡城(栃木県真岡市)

 真岡城は真岡市の中心部にあり、真岡小学校の敷地が城の主郭部に当たる。
 市の中心部であるため市街化に伴い遺構はかなり失われてしまっている。
 主郭部の東側低地は公園になっているが、城址を公園化した様子は全くない。
 土地を利用しただけのものである。

 真岡城は宇都宮氏の重臣であった芳賀高継が天正5年(1577)に築いた。
別名芳賀城とも言う。(真岡城に移る前の御前原城も芳賀城と言うためややこしい。)
しかし、慶長2年、宇都宮氏が改易になると、芳賀氏も没落し城はわずか20年で廃城となったが、江戸時代には一部が代官所となって使用された。

 城は五行川西岸の南北に長い台地にあり、城の東側に五行川より分流させ行屋川を分流させ、これを水堀としている。
 城の西側も低地であり、真岡鉄道が走り、野元川が流れる。ここにも水堀が存在していたらしい。

城は南北400m、東西150mの大きさであり、南北に4郭が並ぶ連郭式である。
比高は10m程度に過ぎず、平城に近い丘城である。
本郭、二郭、三郭は真岡小学校の敷地であり、郭間を仕切る堀は無くなっているが、一部、土塁が残る。
郭は所々90度折れ曲がったところ(横矢折れ)がある。
郭の周囲には腰曲輪があり、東北部に虎口のような場所がある。
ここがこの城の最も城址遺構らしいところである。
ここは搦手門ではないかと思われる。
四郭は堀底道を挟んで小学校南側の城山公園の地であるが、郭の斜面は城郭っぽい雰囲気が十分である。
 しかし、内部には土塁等は見られない。(隠滅した?)大手門は四郭の南、県道真岡上三河線が走る堀底道?に向かって存在していたと推定される。
本郭東の腰曲輪 本郭東下の虎口(搦手門跡?) 掘底道から見る四郭(城山公園)の東側。 腰曲輪から見た本郭。

八木岡城(栃木県真岡市)
 
八木岡城は五行川沿いで二宮町との境界近くにある浄水場に隣接した北東側の丘にある。周囲は全くの平地であり、水田地帯である。
 その平地の中の残丘に城が築かれている。
 東西100m南北150mと南北に細長く、周囲は車で一周できる。
東側に水堀が残り、地肌を見せた崖がみられる。
 一部西側には腰曲輪がある。
土塁等もあるが郭内は平坦ではなく、傾斜していおり居住性は劣る。
 一説にはこの場所に巨大古墳があり、その古墳を改変したものとも言う。
 おそらく西側の腰曲輪当たりに平時の館があったのではないだろうか?
城の周囲は当時は沼地と考えられ、これが最大の防御物であったと思われるが、それ以外の防御性は乏しい。

 八木岡城は鎌倉時代永仁年間(1293-98)に芳賀氏の一族の八木岡高房によって築かれたと言われ、八木岡氏は宇都宮氏の重臣芳賀氏の家臣として活躍した。
 この城のある八木岡庄は元々皇室領の荘園であり、「竹内文書」によると、芳賀高俊が飛山城(宇都宮市)を築城したあと、八木岡庄を高房に譲り分家させ、八木岡を名乗った。
 この城については、北畠親房に攻められ落城したとの記述が「城中輩惣領以下漏一人被誅畢」と「結城文書」の北畠親房御教書写の延元4年(1339)3月24日付けの書状にある。
 しかし、当時城主八木岡氏は、宇都宮公綱(宇都宮9代)に従い足利尊氏らと京都にいた。
 その隙を突いて攻撃されたらしい。
 天文12年(1545)には城主、八木岡貞家が芳賀氏家臣として結城方の水谷蟠龍斎と合戦して討死し、その子貞勝の時、水谷蟠龍斎に攻めら落城し廃城になった。

東北端の高まり。櫓台跡? 城内 内部は平坦ではない。  城址東側に残る水堀  北西側から見た城址。

中村館(栃木県真岡市中)

真岡工業団地の西側、遍照寺の敷地が中村館の址。
館は東西191m、南北182mの方形をしており、周囲に深さ6m、幅9mの空堀がある。
北側は掘が二重になっており、北西端に櫓台があった。
土塁は北側と東側にあり、それ以外の場所については不明。

 この地は、奥州伊達家と関係があり、城跡北方にある「中村八幡宮」には、仙台藩4代藩主伊達綱村の奉納太刀がある。
 築城者は、藤原(中村)朝宗とされている。
朝宗は源義朝の家臣であり、築城時期については、保元元年(1156)説と平治年間(1159〜60)説の二つがある。
その子宗村は奥州征伐の戦功で、文治5年(1189年)子供達に陸奥国伊達・信夫郡(現福島県)が与えられたため、本領の中村を二男朝定に継がせた。
この朝定は、源義経の一子亀王と言われ、義経の奥州下向の際、常陸坊海尊に託して宗村に預けた子と言われている。

 なお、中村伊佐庄(茨城県下館市)を嫡男為宗に譲ったとの説もあり、この後、為宗は伊佐姓を名乗り「吾妻鏡」にも伊佐姓の者が載せられている。
いずれにせよこの中村氏が奥州伊達家の先祖であろう。

 鎌倉時代、中村氏は一度没落するが、朝定から5代目、中村太郎経長の時、建武2年(1335)の中先代の乱で足利尊氏に味方して、活躍することで本領を回復する。
南北朝の騒乱では中村経長は宗家の伊達朝行と共に南朝に組し、北畠顕家に属し伊佐城に籠もった。
 しかし、興国4年(1343年)に高師冬に攻められて行朝は討ち死にし、経長は中村城に逃れ宇都宮公綱を頼り、中村荘も宇都宮領となった。

 しかし、応安元年(1368)宇都宮氏綱が鎌倉府に反乱を起こし敗れると、宇都宮領は減俸され、中村の地は結城領となった。
 中村の地が宇都宮領として中村氏の手に復帰するのは、永享2年(1440)の結城合戦の後である。

 中村氏は宇都宮氏に従い活躍するが、天文13年(1544)10月7日の雨の夜に水谷正村(蟠龍斎)の奇襲攻撃により中村館は落城し、10代城主中村日向入道玄角は逃亡中に討ち取られた。
 その後、中村領奪取を図った宇都宮尚綱(20代)は、武田信隆に命じ水谷正村の居城久下田城を攻めるが、逆に返り討ちに遭い奪還はできなかった。]

 なお、遍照寺の境内にある樅の木は伊達家に縁があり、伊達騒動を題材にした名作「樅の木は残った」のモミの木という。
 館は要害性がほとんどなく、大型の居館といった印象。
 それほどの兵力でなくても夜襲で簡単に落城してしまったことには納得できる。
 寺の境内となり、杉林に覆われ一部は墓地となっているが、遺構は比較的良く残っているが、堀は浅く埋まりつつある。

寺入口にある館址の碑。両側は堀 館址碑東側。
堀は埋められてしまっている。
館址碑西側の堀  館址北側。
笹に埋もれて確認しにくいが二重の堀がある。

桜町陣屋(真岡市(旧二宮町)物井)
桜町陣屋は、元禄12年(1699)小田原藩大久保家から宇津氏が4000石で分家してこの地に陣屋を置いたものというが、農地が荒れてしまい,その助っ人として招聘したのが、故郷の地、小田原出身の二宮金次郎である。

彼は文政6年(1823)、この地に赴任し、以後26年、農村再興、財政再建に尽力。
この手法が「桜町仕置」と評判を取り、他藩も手本とした。
今ある陣屋の建物は、彼が活躍したその建物そのものという。

この建物、それほどたいしたことはないが、二宮金次郎の御威光により、国指定史跡となっている。
さすが二宮金次郎である。
陣屋跡は整備され、土塁が残る。
土塁は1.5mほどと低い。南側にはちゃんとした枡形が残る。

陣屋南の枡形 低い土塁が西側に延びる 二宮金次郎が滞在したという建物

長沼城(真岡市(旧二宮町)長沼)

長沼城は、長沼中学校の北側一帯であったというが、ほとんど遺構らしいものは見られない。
鬼怒川沿いの微高地上にあったことが、今の地形だけから感じさせるだけである。
右の写真が主郭と思われる場所である。手前側に堀跡と思われる溝がある。

現在は「舘の内」「宿の内」「道生(どじょう)」「東北門」「北門」「西木戸」「南宿」「北宿」といった地名が残る。
南西に長沼氏の菩提寺であった宗光寺があり、ここが初期の長沼氏の居館跡という。
長沼氏は小山政光の次男、宗政が鎌倉時代初め頃に興した家であり、この一族が須賀川の長沼城を築き、さらに皆川氏に発展した。
長沼氏本家はこの城に住むが、12代成宗の時に、古河公方成氏方に味方したため上杉氏の攻撃を受け、文明3年(1471)滅亡してしまったという。